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是非、入った事をご確認下さい。
2011年11月13日日曜日
2011年10月6日木曜日
家具君
・
柏葉窯の移転計画に強力な助っ人が登場!
家具君だ!!!
建築中は塗装やら工作やらで頑張っていたのだが、竣工と共に疲労がどっと出てやる気を無くしていた。
まだまだやる事がいっぱいあるのに・・・。
そんな折、友人の家具職人・家具君が勤め先を退社。暫く時間があるとの事で手伝いに来てくれる事になったのだ。
家具君は家具職人でありながら、現場経験もあるので建物の事も分かる。
・・・最高の助っ人だ!
最初の仕事はホールのデッドスペースに物置を作る。
材料の刻みから・・・
道具も持ち込んでくれた。
半ば趣味で集めたと云う道具類。
カンナの反りを見る。
思案中
遊びに来た猫が二匹、・・・遊ぶ!
そう云う場所では無いのですが・・・。
強度に若干の不安を感じ、突っ張りを入れて完成。
暫くお世話になります。
家具君ありがとう!
・
柏葉窯の移転計画に強力な助っ人が登場!
家具君だ!!!
建築中は塗装やら工作やらで頑張っていたのだが、竣工と共に疲労がどっと出てやる気を無くしていた。
まだまだやる事がいっぱいあるのに・・・。
そんな折、友人の家具職人・家具君が勤め先を退社。暫く時間があるとの事で手伝いに来てくれる事になったのだ。
家具君は家具職人でありながら、現場経験もあるので建物の事も分かる。
・・・最高の助っ人だ!
最初の仕事はホールのデッドスペースに物置を作る。
材料の刻みから・・・
道具も持ち込んでくれた。
半ば趣味で集めたと云う道具類。
カンナの反りを見る。
思案中
遊びに来た猫が二匹、・・・遊ぶ!
そう云う場所では無いのですが・・・。
強度に若干の不安を感じ、突っ張りを入れて完成。
暫くお世話になります。
家具君ありがとう!
・
2011年10月2日日曜日
2011年8月19日金曜日
海老根 英人 ・ 美紀子展
・
お馴染、海老根御夫婦の二人展です。
場所・ギャラリー悠玄
日時・9月19日(月)~24日(土) 11:00~19:00(最終日は17:00)
初日17:00よりオープニングパーティーがございます。
2011年7月26日火曜日
2011年6月24日金曜日
「宮古島 祈りの旅 神と出会うまで」 最終章
・
明けて最終日、この日は午後に新城邸を再訪した後、皆其々の旅程で帰途に就く。
宮古島での最後を楽しみ、去年伺った、新城邸近くのヒーリングショップ・「ウルル」さんにでも立寄ろう等と気楽な気持ちで居た。
石庭に到着、先ずは太陽のサークルへ。
吉岡さんが、大の字に寝っ転がる。
勉強会で瞑想の話題になった時、「一人でする瞑想より、大の字に寝て、腹式呼吸する方が安全で良いよ」と教わっていた。
神聖意識と繋がるにはリラックスする事が最も重要だと多くの方から聞いている。・・・しかし、本当にリラックスし思考に捉われない状態になるのは実に難しい。
私も真似て寝っ転がる。 心地よい。
暫くの後、瞑想の姿勢に座り直す。
ふっと気付くと深い状態に入っていた。・・・言葉では表現できないが、この石庭にはここ特有の不思議な音とリズムがあり必ずそれが聴こえる。
この手記は、同行した妻と確認作業をしながら書き進め、投稿前には必ず妻に見てもらい、意見を聞いて投稿している。
石庭に関して妻が、「ここは男性が強く啓示を受ける場所だと思う」と云った。
同感である。母の胎内の様な場所かも知れない。
妻は、「女性には元々あるものがここにはあるので女性は特にこの場所で強くエネルギーを感じる事は無いのではないか?」・・・と。
妻は石庭の中では「月のサークル」に強いエネルギーを感じるそうだ、私は逆にあまり感じない。個体差、性差で感じ方は色々なのだろう。
場所との響き合いにしてもそうだが、誰もが宮古島を聖地だと感じる訳ではないだろう。そこには私にとっての「魂の起源」的な繋がりがあるのだと思う。
ある人にはそれがインドであったり、イスラエルであったり、または東京だったりするかも知れない。
・・・ここで必ず聴こえる音、リズムの心地よさは胎内で羊水に浸かる胎児の記憶だと思った。
瞑想中の私は、前日と同じ長~い一本道を見る。言葉としてでは無いが「歩いて来い!」と促される。感覚に従い彼方に見える出口を目指す。
行けども行けどももっともっとと促される。・・・「これはついに真理を見せて下さるのか!」と期待し、ぐんぐん登って行く。とうとう登りきって最後の気力を振り絞り、期待した真理に飛び込んだ・・・。
なんにも無い!
そこは、何処までも真っ白に、「カーン」と広がる空間だった。
それでもまだ何かあるのではないかと、中空に浮かびキョロキョロと周りを見渡したが矢張り何も無かった。
怖いようで、心地よい。・・・空とはこの事なのだろうか?
な~んだって感じで姿勢を崩し、再び仰向けに寝っ転がる。あまりに日差しが強いので、ハンカチを顔に掛ける。
暫くすると、ハンカチが風にさらわれる。
風なのだが、人に外されたような妙な感じがした。
意思を持ってそうする為に吹いた風の様であった。
ハンカチを掛け直す事も無くその状態で身を任せていると、突如、黄金色にまばゆく輝きどこまでも無限に広がる大光明が現れる。
それは、円形の曼陀羅が細かく細かく細分化された様な極めて美しい幾何学模様で、中心から外に向かって細かな模様の一つ一つが煌めきながら、「ゴーっ」と云う音と共に緩やかに流動している。 (言葉での表現は無理です)
ありとあらゆる全てがそこに在り、一元の絶対的な秩序を感じる。
人間(私?)の知覚的な限界で、映像としては平面で見えるが、本当は全方向に際限無く広がっている光そのものだと感じている。
そしてまた、強い確信を伴い、それが「天照大御神様」であると云う理解が降りた。
続いて、また瞑想の形に姿勢を正す。天照大御神様をお呼びするが、現れたのは白く巨大な石造彫刻の様なもので、真ん中に御顔がある。
例えは悪いが「マジンガーZ」の様な顔だ。
とにかく巨大で全体を見る事は出来なかった。
白く厳然としてあり、この世にあったら最高の芸術であろう美の塊である。
それは幾何的な天照大御神様に対し、とても具象的。
「地球神・白龍様」だとの理解が降りる。
そして、天照大御神様と白龍様は相対で働くと云う啓示を受けた。
私が見たものを名前として其々呼称で呼んだが、私の中にイメージとしてあったものではない。
其々の姿について「こう云うものだ」と聞いたことも無かったし、その時それらとの出会いを求めたものでもない。
思考が創造した妄想ではないのだ。
特に、白龍様は「龍」と云う様な形では無かったので、後日吉岡さんに確認すると、認証された。
もし 呼称に抵抗があれば、光源、大光明、大日輪、高次のエネルギー体等々、何でも良い。
呼称については知識が反映された可能性はある。
ただ、「天照大御神」「白龍」と呼ばれる、何か共通認識の様なものがあるようである。・・・私にとっては不意打ちだ。
イメージで見たものでは無かったが、これは私が見たもので、見え方、出会い方、感じ方は人それぞれ違うかも知れない。
そして、「見えた」と云う事だけをもって出会えたと云う事でもないだろう。
また、誤解無き様お伝えするに、リーダーの吉岡氏が宗教的概念でそれらを崇め奉る様指図した事は無い。
更に、「神」と云う事では、仏教やキリスト教、それらに準ずる様々な信仰の神々。
氏神様やあらゆる神社の神様。
東照大権現や藤原道真等の人格神。
守護霊、守護神、御先祖様と云う神。
また、エネルギー体としての自然神、地球神、宇宙神。
真理、法則、絶対、愛等の意味に於ける神等々、どんな神の事でも自由に語る。
御本人は「神」と云う誤解を招きやすい言葉は本当は使いたく無いらしい。
そのスタンスは私も同じである。
今回の御神事や、勉強会に参加するメンバーたちも平時は一般の社会人であり、我々が何か共通の信仰、思想、信念等で結びついている訳ではない。
全くの自由。 個人的に特定の宗教に属している者も居るだろう。
私自身も吉岡さんに限らず、霊能者や、精神世界の様々な先輩方と広範に交流している。
ちなみに、20代前半に一度だけ仏教系の新興宗教に属した事があるが、それは中に入ってみないと見えないものがあると思ったのが第一の理由で、教義等にはあまり共感はしていなかった。
以来、特定の宗教的組織に属した事は無いが、そう云ったものに属している人が居てもそれはそれで良いと思うし、本物もあるだろう。
否定が嫌いなので興味を持った事には躊躇なく飛び込むが、常に冷静なもう一人の自分が居て、盲信する様な事は決してない。
怖がって拒否し、知らないのに否定する事の方が罪だと思っている。
吉岡氏は、カリスマ的ではあるが、決して中心に座る事は無い。
中心に座っていたら交わらなかったであろう。
だから、一つの狭い方向性や教義。特定の神などを示し、「そこへ向かえ!」と云ったような事は一切しない。
常に我々と横並びに位置し、あらゆる自由の容認の中、単に其々の気付きを促してくれているだけである。
勉強会でも話す内容はいつも違う。
この手記も、私の信じる事にいざなおうとか、吉岡氏と結び付けようとか云った意図は一切無い。
体験を公表した事は、それを自慢したいとか云う事では無く、それにより見る世界が広がれば良いと思ったのである。
現に、体験があったと云うだけで、人間としての「私」が何か特別な能力を持った訳ではない。
ただ、意識の変化は大きかった。体験に「愛」とか「調和」とか云ったものを感じたからである。
私はこれまで、人に対して「愛している」と云う言葉を云った事が無い。愛が解らなかったからだ。恋愛をしてもせいぜい「好き」止まりである。
しかし、この旅を終え、始めて人に対して「愛してる」と云えた。誰かにそれを云うことは、自分を愛している事だし全てを愛している事である。
愛とは部分では無く全体なのだ。個が好き嫌いを感じる事とは別の話である。好き嫌いなど誰にでもある。
自他の欠点や、個別の感情、善も悪も全てを内包(許し)しているのが愛だと思う。
断片(部分)に捉われなければ調和=愛である。
「アセンション」と云う言葉も終末思想の様に恐怖を煽る様な意味で使ったのでは無い。
私にとっては単純に素直になる事、楽しく生きる事。
自然への感謝とか、地球と云う大きな生命体を我欲で傷つけない事。
思考で限定した小さな自己が排他的に争わない事。
心の捉われを一つずつ外し、高い次元の意識での存在を心がける事。
・・・等々を意識。そして愛や調和を実感する事等だと思っている。
災害や戦争、環境破壊や心身の不調和を自ら望む者はそう多くは無いと思う。
私はそれらを、心の向きを決める「言葉」を駆使し、何があっても明るく捉えるよう心掛けている。
環境問題や原発、精神世界の事等を、それらに最も強く関心があった20代の頃は語り合える人も少なく、政治やマスコミの世界ではタブーでさえあった。
しかし、今はそうではない。それも次元上昇と云う事である。
今を厳しく見つめ直し、明るい未来を希求する高い意識が増えて行く事で、いつの間にか普遍的な規範になっているものなのだ。それを集合意識と呼んだ。
政治や経済の事は解らないが、人間其々が得意分野や役割、立場のなかで出来る事をすればいいのだと思う。
私も、男として、夫として、陶芸家として、陶芸講師として、出来る事をして行きます。
ありがとうございました。
この一ヶ月、何度も徹夜し、このブログでの投稿に多くの時間を割いてきましたが、これでまた本業に戻り、自分のすべき「移転計画の完成」に精力を注いで行きます。
そして、一日も早く、多くの方々と、楽しく豊かな時間を過ごせる空間造りをいたします。
言葉の誤用や、上手く伝えられなかったことも多々あるとは思いますが、大好きな友人、仲間達が居るからこそやる気になり、やり抜けました。
皆様いつも支えて下さり本当に感謝いたします。
長い連載にお付き合い下さりありがとうございました。
旅は、吉岡さんや数名のメンバーと別れた後、池間島へ向かい展望塔から大神島に御挨拶。
漲水御嶽(はりみずうたき)へ向かう途中・・・。
漲水御嶽は宮古島最高の御嶽とされ、一般人の参拝も認められている。
宮古島への入退島時に御挨拶の祈りをするのが習わしである。
すぐ上の高台に建つ宮古神社へも御挨拶。
ありがとうございました。
飛行機ではみな別々にチケットを取ったのに、前と横がメンバーで、近くにはテレビでも有名なユタさんも乗っていた。
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※必要があれば文章や写真の転載、転用などご自由にされて下さい。
明けて最終日、この日は午後に新城邸を再訪した後、皆其々の旅程で帰途に就く。
宮古島での最後を楽しみ、去年伺った、新城邸近くのヒーリングショップ・「ウルル」さんにでも立寄ろう等と気楽な気持ちで居た。
石庭に到着、先ずは太陽のサークルへ。
吉岡さんが、大の字に寝っ転がる。
勉強会で瞑想の話題になった時、「一人でする瞑想より、大の字に寝て、腹式呼吸する方が安全で良いよ」と教わっていた。
神聖意識と繋がるにはリラックスする事が最も重要だと多くの方から聞いている。・・・しかし、本当にリラックスし思考に捉われない状態になるのは実に難しい。
私も真似て寝っ転がる。 心地よい。
暫くの後、瞑想の姿勢に座り直す。
ふっと気付くと深い状態に入っていた。・・・言葉では表現できないが、この石庭にはここ特有の不思議な音とリズムがあり必ずそれが聴こえる。
この手記は、同行した妻と確認作業をしながら書き進め、投稿前には必ず妻に見てもらい、意見を聞いて投稿している。
石庭に関して妻が、「ここは男性が強く啓示を受ける場所だと思う」と云った。
同感である。母の胎内の様な場所かも知れない。
妻は、「女性には元々あるものがここにはあるので女性は特にこの場所で強くエネルギーを感じる事は無いのではないか?」・・・と。
妻は石庭の中では「月のサークル」に強いエネルギーを感じるそうだ、私は逆にあまり感じない。個体差、性差で感じ方は色々なのだろう。
場所との響き合いにしてもそうだが、誰もが宮古島を聖地だと感じる訳ではないだろう。そこには私にとっての「魂の起源」的な繋がりがあるのだと思う。
ある人にはそれがインドであったり、イスラエルであったり、または東京だったりするかも知れない。
・・・ここで必ず聴こえる音、リズムの心地よさは胎内で羊水に浸かる胎児の記憶だと思った。
瞑想中の私は、前日と同じ長~い一本道を見る。言葉としてでは無いが「歩いて来い!」と促される。感覚に従い彼方に見える出口を目指す。
行けども行けどももっともっとと促される。・・・「これはついに真理を見せて下さるのか!」と期待し、ぐんぐん登って行く。とうとう登りきって最後の気力を振り絞り、期待した真理に飛び込んだ・・・。
なんにも無い!
そこは、何処までも真っ白に、「カーン」と広がる空間だった。
それでもまだ何かあるのではないかと、中空に浮かびキョロキョロと周りを見渡したが矢張り何も無かった。
怖いようで、心地よい。・・・空とはこの事なのだろうか?
な~んだって感じで姿勢を崩し、再び仰向けに寝っ転がる。あまりに日差しが強いので、ハンカチを顔に掛ける。
暫くすると、ハンカチが風にさらわれる。
風なのだが、人に外されたような妙な感じがした。
意思を持ってそうする為に吹いた風の様であった。
ハンカチを掛け直す事も無くその状態で身を任せていると、突如、黄金色にまばゆく輝きどこまでも無限に広がる大光明が現れる。
それは、円形の曼陀羅が細かく細かく細分化された様な極めて美しい幾何学模様で、中心から外に向かって細かな模様の一つ一つが煌めきながら、「ゴーっ」と云う音と共に緩やかに流動している。 (言葉での表現は無理です)
ありとあらゆる全てがそこに在り、一元の絶対的な秩序を感じる。
人間(私?)の知覚的な限界で、映像としては平面で見えるが、本当は全方向に際限無く広がっている光そのものだと感じている。
そしてまた、強い確信を伴い、それが「天照大御神様」であると云う理解が降りた。
続いて、また瞑想の形に姿勢を正す。天照大御神様をお呼びするが、現れたのは白く巨大な石造彫刻の様なもので、真ん中に御顔がある。
例えは悪いが「マジンガーZ」の様な顔だ。
とにかく巨大で全体を見る事は出来なかった。
白く厳然としてあり、この世にあったら最高の芸術であろう美の塊である。
それは幾何的な天照大御神様に対し、とても具象的。
「地球神・白龍様」だとの理解が降りる。
そして、天照大御神様と白龍様は相対で働くと云う啓示を受けた。
私が見たものを名前として其々呼称で呼んだが、私の中にイメージとしてあったものではない。
其々の姿について「こう云うものだ」と聞いたことも無かったし、その時それらとの出会いを求めたものでもない。
思考が創造した妄想ではないのだ。
特に、白龍様は「龍」と云う様な形では無かったので、後日吉岡さんに確認すると、認証された。
もし 呼称に抵抗があれば、光源、大光明、大日輪、高次のエネルギー体等々、何でも良い。
呼称については知識が反映された可能性はある。
ただ、「天照大御神」「白龍」と呼ばれる、何か共通認識の様なものがあるようである。・・・私にとっては不意打ちだ。
イメージで見たものでは無かったが、これは私が見たもので、見え方、出会い方、感じ方は人それぞれ違うかも知れない。
そして、「見えた」と云う事だけをもって出会えたと云う事でもないだろう。
また、誤解無き様お伝えするに、リーダーの吉岡氏が宗教的概念でそれらを崇め奉る様指図した事は無い。
更に、「神」と云う事では、仏教やキリスト教、それらに準ずる様々な信仰の神々。
氏神様やあらゆる神社の神様。
東照大権現や藤原道真等の人格神。
守護霊、守護神、御先祖様と云う神。
また、エネルギー体としての自然神、地球神、宇宙神。
真理、法則、絶対、愛等の意味に於ける神等々、どんな神の事でも自由に語る。
御本人は「神」と云う誤解を招きやすい言葉は本当は使いたく無いらしい。
そのスタンスは私も同じである。
今回の御神事や、勉強会に参加するメンバーたちも平時は一般の社会人であり、我々が何か共通の信仰、思想、信念等で結びついている訳ではない。
全くの自由。 個人的に特定の宗教に属している者も居るだろう。
私自身も吉岡さんに限らず、霊能者や、精神世界の様々な先輩方と広範に交流している。
ちなみに、20代前半に一度だけ仏教系の新興宗教に属した事があるが、それは中に入ってみないと見えないものがあると思ったのが第一の理由で、教義等にはあまり共感はしていなかった。
以来、特定の宗教的組織に属した事は無いが、そう云ったものに属している人が居てもそれはそれで良いと思うし、本物もあるだろう。
否定が嫌いなので興味を持った事には躊躇なく飛び込むが、常に冷静なもう一人の自分が居て、盲信する様な事は決してない。
怖がって拒否し、知らないのに否定する事の方が罪だと思っている。
吉岡氏は、カリスマ的ではあるが、決して中心に座る事は無い。
中心に座っていたら交わらなかったであろう。
だから、一つの狭い方向性や教義。特定の神などを示し、「そこへ向かえ!」と云ったような事は一切しない。
常に我々と横並びに位置し、あらゆる自由の容認の中、単に其々の気付きを促してくれているだけである。
勉強会でも話す内容はいつも違う。
この手記も、私の信じる事にいざなおうとか、吉岡氏と結び付けようとか云った意図は一切無い。
体験を公表した事は、それを自慢したいとか云う事では無く、それにより見る世界が広がれば良いと思ったのである。
現に、体験があったと云うだけで、人間としての「私」が何か特別な能力を持った訳ではない。
ただ、意識の変化は大きかった。体験に「愛」とか「調和」とか云ったものを感じたからである。
私はこれまで、人に対して「愛している」と云う言葉を云った事が無い。愛が解らなかったからだ。恋愛をしてもせいぜい「好き」止まりである。
しかし、この旅を終え、始めて人に対して「愛してる」と云えた。誰かにそれを云うことは、自分を愛している事だし全てを愛している事である。
愛とは部分では無く全体なのだ。個が好き嫌いを感じる事とは別の話である。好き嫌いなど誰にでもある。
自他の欠点や、個別の感情、善も悪も全てを内包(許し)しているのが愛だと思う。
断片(部分)に捉われなければ調和=愛である。
「アセンション」と云う言葉も終末思想の様に恐怖を煽る様な意味で使ったのでは無い。
私にとっては単純に素直になる事、楽しく生きる事。
自然への感謝とか、地球と云う大きな生命体を我欲で傷つけない事。
思考で限定した小さな自己が排他的に争わない事。
心の捉われを一つずつ外し、高い次元の意識での存在を心がける事。
・・・等々を意識。そして愛や調和を実感する事等だと思っている。
災害や戦争、環境破壊や心身の不調和を自ら望む者はそう多くは無いと思う。
私はそれらを、心の向きを決める「言葉」を駆使し、何があっても明るく捉えるよう心掛けている。
環境問題や原発、精神世界の事等を、それらに最も強く関心があった20代の頃は語り合える人も少なく、政治やマスコミの世界ではタブーでさえあった。
しかし、今はそうではない。それも次元上昇と云う事である。
今を厳しく見つめ直し、明るい未来を希求する高い意識が増えて行く事で、いつの間にか普遍的な規範になっているものなのだ。それを集合意識と呼んだ。
政治や経済の事は解らないが、人間其々が得意分野や役割、立場のなかで出来る事をすればいいのだと思う。
私も、男として、夫として、陶芸家として、陶芸講師として、出来る事をして行きます。
ありがとうございました。
この一ヶ月、何度も徹夜し、このブログでの投稿に多くの時間を割いてきましたが、これでまた本業に戻り、自分のすべき「移転計画の完成」に精力を注いで行きます。
そして、一日も早く、多くの方々と、楽しく豊かな時間を過ごせる空間造りをいたします。
言葉の誤用や、上手く伝えられなかったことも多々あるとは思いますが、大好きな友人、仲間達が居るからこそやる気になり、やり抜けました。
皆様いつも支えて下さり本当に感謝いたします。
長い連載にお付き合い下さりありがとうございました。
旅は、吉岡さんや数名のメンバーと別れた後、池間島へ向かい展望塔から大神島に御挨拶。
漲水御嶽(はりみずうたき)へ向かう途中・・・。
漲水御嶽は宮古島最高の御嶽とされ、一般人の参拝も認められている。
宮古島への入退島時に御挨拶の祈りをするのが習わしである。
すぐ上の高台に建つ宮古神社へも御挨拶。
ありがとうございました。
飛行機ではみな別々にチケットを取ったのに、前と横がメンバーで、近くにはテレビでも有名なユタさんも乗っていた。
最高の旅をありがとうございました!!!
2011年6月19日日曜日
宮古島 祈りの旅 神と出会うまで 11
・
大神島を後に、新城定吉翁の石庭へ向かう。
途中、素敵なレストランで昼食。
テーブルとなっている大きな岩に、サキュレント?が芽を出している。
お薦めのカレーライス。
ライスで宮古島を、揚げ物で島々が表わされている。
左下から時計回りに、来間島、伊良部・下地島、池間島、大神島。
大盛りだったか、スペシャルだったかにだけ大神島が付いてくる。
新城定吉邸に到着。
(今回こちらの写真を殆ど撮っていなかったので、前回、秋に伺った際の写真を転用いたします。また、文章に於いてもその時のブログのものを反映させて頂きます。・・・沖縄紀行 11)
ここは、大正10年生まれの新城定吉氏が、天啓に導かれるまま、人間一人が人力でそれをするのは到底不可能とも思える巨岩(サンゴの化石)を幾つも掘り起こし、また、地中深く穴を掘るなどの作業を続けた結果、極限状態で様々な啓示を受けながら不可能を可能とし具現した場所である。
元々新城家の庭であったこの地に、明治30年頃、天上界より御降臨された、「天神様」の啓示により、拝所(うがんじょ)が定められた御嶽であったと云う。
その後、本島への移転により、誰からも拝礼される事が無くなり、廃れてしまったものを、定吉翁が再興した。
「石庭」と呼ばれているが、庭を造ると云う目的で造られたものではなく(私の解釈ですが・・・)、ただ、導かれるままに巨岩を掘り起こし、あるべき位置に設置されているもので、必然の結果として生まれた、ある種、完璧な形である。ただ、庭と云うものは本来的に、「神の依り代」の意味があるらしい。
芸術は、常に自然(アニミズム的には、神である)を師とし、近付こうとするが、近付けても、決してそれを超える事は無い。近付けた度合いが芸術の真価の基準だとも云えるだろう。
そして、この形には、極限までそれに近付き、同等に響きあった調和を感じる。
前回、単独で訪れた際も、敏感とは云い難い我々夫婦が、そのエネルギーに圧倒され、身体が火照り、意識が高揚した。
今回は、様々な御神事や、神秘体験で意識が開いている上、同じように意識を高めあっている仲間との同行による相乗効果。また、吉岡さんがこの場に居る事での更なるエネルギーの放出があるため、前回とは、比べ物にならない強烈なエネルギーを感じる。
3000坪の広大な敷地内に、巨岩で囲まれた幾つものサークルがある。其々のサークルでエネルギーの質が違うらしい。
先ずは、「太陽のサークル」で瞑想する。
前回訪れた時は季節の所為か蚊が多く、瞑想どころではなかったが、今回はまだ発生前でゆっくりと座る事が出来た。
すぐに深い状態になり漂うように座っていると、目の前に上方へ長く続く白い一本道が現れた。(これははっきりと映像で見えた)
「門が開く」と云うメッセージを受け取った。
メッセージと云うのは、文字が見えるとか、声として聞こえる訳では無く、瞬間に強い確信と共に言葉が降りて来る様な感じだ。「想うよりも先に言葉があった」・・・と云った感じか?
続いて他のサークルを回りながら、途中の「宇宙電波塔」と名付けられたガジュマルの木へ。
二つある木のうろに両手を入れエネルギーを感じるものらしい。吉岡さんが事前の説明で、「そこに手を入れると抜けなくなる」 と冗談で笑わせてくれた木である。
手を入れてみる。・・・途端、全身にもの凄いエネルギーが突き抜け身体が波打つ。
過去体験した事の無い強烈な体験だ。特に会陰の辺りがぐるんぐるんと暴れていて、足はふらつき立っているのがやっとな程・・・。
うろに入れた手に力を込め、必死でしがみついていた。エネルギーを感じるとか云うあいまいなものではなく強烈に身体が反応している。
そして何故か名前を名乗り、頂いた鏡のお役目を全うして行く事を宣言していた。
身体が落ち着きそっと手を抜いた。・・・茫然自失!
ボーっとしたまま、その先の「地球のサークル」へ。そこは最強のエネルギーの場だと云う。
正座をして祈ろうとする。・・・確かに下から突き上げて来る様なジンジンとしたエネルギーと、上からのギラギラした強いエネルギーを感じる。
そして、頭を下げ、自然にこう宣言していた。「私は何者でもありません、頂いたお役目で光を反射いたします・・・」
宇宙電波塔の上に吸い上げられる強烈なエネルギーは、与えられた働きを神にさせて頂くため、私の名前(自我)を抜かれる力だったのだと理解した。祈りは人間としての「私」ではなく、神に使って頂き、神として祈るのだ。
後に理解した事だが、神と一体である、自分も神であると云う自覚。また、神として働くと云う事は、最も謙虚に自分を神に捧げた姿だと思う。
その後、掘り出された沢山の石が置かれた新城さんの部屋でお話を聞くが、圧倒的なエネルギーでまたもトランス状態になる。姿勢を崩さぬようそこに居るのが精一杯。話も全く頭に入らなかった。
翌日、またここを再訪するのだが・・・。
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